| 平和活動家の見たパレスチナ |
いわゆるパレスチナ専門家の話しを聞いていても、殆どがためにならない。特に学者(大学教授)の話しはただのビジネスだろう、という感覚を覚えてまう。考えてみるとそれも無理もないのだと思う。私がやっているのは平和活動である。利益も名声も追い求めていないが、彼らはパレスチナ問題を研究して生計を立てているのだから。
私が中東に興味を持ったのは1981年、アメリカの大学に留学した時である。キッカケは大学に通い始めてすぐ、キャンパスでアラブ人学生達がプラカードを持って騒いでいた事。何が起こったのか聞くとエジプトの大統領が暗殺された、と言う。1981年10月6日、アンワール・サダトの暗殺だった。
それから中東に関する本を読み漁った。当時はまだ、ジャーナリストになりたいとも考えていて、よく勉強したものだ。特にパレスチナ情勢はいつも私の最大の関心ごとだった。時は流れて私は帰国し、ITビジネスを立ち上げた。2003年頃から中東の大使館に出入りする様になり、大使や外交官と食事をする様になった。私は彼らに気に入られた。中東の歴史に関しての知識があり、しかも日本の政治家の様な狭い世界観でモノを語らないからだ。お金にも余裕が出来てきて、2012年から毎年、パレスチナを訪問した。もちろん、それまでに培った大使との関係は、中東の何処に行くにも役に立った。
かつてジャーナリストを目指していた私だが、別のやり方で世界に訴える方法を見つけた。世界平和を訴える音楽を作る、という私独自の方法論を実践した。だから中東に行くのは音楽演奏が主な活動。しかしその中で、パレスチナに於いてはヨルダン川西岸の隅々まで行き、パレスチナ人と交流してきた。そしてイスラエルも隅々まで訪問した。
ビリン村ではマシンガンを持ったイスラエル兵士(以下、IDF)と向き合って抗議をした。催涙弾など何度も浴びた。テルアヴィヴの空港では拘束され、IDFと口論した。それなりに平和実現のため、私は貢献していると考えていた。しかし2023年10月、イスラエルは暴発し、虐殺が始まった。私の八度に渡るパレスチナに於ける平和活動、それは全く意味はなかった。だから私は役立たずの敗者なのだ、と自分に言い聞かせている。
私は日本では、パレスチナに於いてやってきた平和活動について、あまり人には話さない。あくまでパレスチナ人の為にやった事であり、日本人に分かって欲しいとも思わない。本を出版して儲ける事もない。高い参加費を取って講演を行う事もない。パレスチナに行ったぞ、なんて自慢する必要もないのである。
先ず知らなくてはいけないのがイスラエルの人口比。実は総人口の21%はアラブ系である(その内の8%がドゥルーズ派)。特に北部に多い。要するに1948年、イスラエルがパレスチナを乗っ取り、建国宣言をしてパレスチナ人を追い出した訳だが、北部の方までは攻撃が及ばず、多くのパレスチナ人が残ったのである。そのドゥルーズを含むパレスチナ系のイスラエル人が今でも200万人以上もいる。ハイファもパレスチナに元から住んでいるパレスチナ人家系の割合が多い地域である。
彼らは通常、アラブ系イスラエル人と認識される。子供などは下手をすると自分がパレスチナ系だとも知らない。あくまでアラブ系と言われて育つからだ。
私は2012年、ハイファ大学にて演奏をした。大学の立派な建物の上階に案内されたが、そこからゴラン高原が見下ろせた(写真右)。ハイファ辺りのアラブ系イスラエル人は二級市民と言える。労働者階級で、タクシー運転手や掃除夫などの職業、いわゆるブルーカラーが殆ど。ハイファ大学内でもアラブ系イスラエル人に会う事はなかった。
また、2015年にはハイファから更に北に行ったドゥルーズのコミュニティを訪問した。彼らは独特の文化を継承している。ドゥルーズの男性はアラブ系イスラエル人とは異なり、IDF兵役義務があり、一部は高い地位に登用されている。
私は実際にこれらの地域を訪れて、現地の人と接し、目にしてきたのだが、多くの日本人は現実のイスラエルとパレスチナを知らない。例えばアラブ系イスラエル人とユダヤ系イスラエル人が友達同士、というのは普通に当たり前である。
2012年に来日したイスラエル人平和活動家のアダム・ケラー。徴兵拒否をしたので投獄され、今は二カ国解決を推進する「グーシュ・シャローム」という団体を率いている。彼の明治大学で行われた講演に参加し、そして2016年にテルアヴィヴ郊外にある彼のマンションを訪ねた。
かなり散らかっているマンションで母親と二人で生活していた。イスラエルで徴兵を拒否するのは容易な事ではない。仕事も見つからない様で、どう見ても余裕のある生活を送っている様には思えなかった。
2017年、東京ドームで開催されたWBCイスラエル戦を観戦し、イスラエル大使館の面々がいる中、このグーシュ・シャロームのプラカードを掲げた(写真右)。アダムからもらったものだ。
それは兎も角、アダムの自宅を訪問した翌日、彼の母親がテルアヴィヴで抗議活動をするので、手伝って欲しい、と言われた。つまり彼の母親も平和活動をしているのである。だから息子が無職でも、支援するのだろう。
その母親と町中で声を上げていたら二人の若者が割り込んできた。彼らはユダヤ系とパレスチナ系だと言う。私が日本人だと知り、お前ら日本人は中国や朝鮮を侵略しただろう、イスラエル以上の残忍な国民だ、ここで偉そうにイスラエル批判をするな、と言う。俺たちは人種の壁を乗り越えて友だち同士だ、と。
イスラエル人がこの過去の日本が行った侵略の歴史を持ち出し、私に詰め寄る事は多い。こんな過去は私とは関係ないと言えばない訳だが、言いたくなるのは理解できる。
ザッと言えばイスラエル国民の8割がユダヤ系、2割がパレスチナ人の子孫である。しかもユダヤ人というのはユダヤ人の血を受け継いでなくとも、ユダヤ教徒であればユダヤ人になる。だから日本生まれの日本人もユダヤ教徒になり、ユダヤ人としてイスラエルで生活する人もいる。そうした人たちの集会にも参加した事がある。イスラエル国内ではむしろ、アラブ系とユダヤ系は上手くやっていると言って良い。
だからネタニヤフもガザのパレスチナ人を全員、追放しようとは思っていない。少数なら、そしてイスラエル政府に従えば、テロを起こさなければそのままガザに居ても構わない、と考えているのは間違いない。
2025年10月、イスラエルは停戦に合意した。しかしもちろん、ガザを支配するという計画を諦めた訳ではない。勝つ為にリングに上がったボクサーが相手をコーナーに追い詰め、もう少しで勝利を手にする。しかしレフェリーがストップをかけ、今は中断している。このまま相手が息を吹き返すのを待ち、立ち上がったら、じゃあこのままで引き分けにしましょう、なんて事を言う訳がない。
(写真左)2015年、アースキャラバンの活動に加わり、ベドウィンの村で子どもたちと一緒に折り鶴を折った。
年配のイスラエル人から聞いたのだが、彼らが子供の頃、学校の教科書にいずれガザはイスラエルの領土となる、と書いてあったそうだ。イスラエルのガザ征服は何十年前からの悲願だ。何が何でもガザを手中に治める、その意思は固い。
これ以上の大胆な攻撃はしなくても幾らでもガザ市民を追い出す方法はある。例えば夜中に戦闘機を低空飛行させ、ガザ市民の睡眠を邪魔する。日本では報道されないが、これは10年位前から実際にイスラエルがやっている生活妨害作戦である。
ただでさえ、破壊された街を再建するのは簡単ではない。瓦礫撤去だけで25年かかる、という試算もある。人がまともに生活出来るまで、これからも多くの人が亡くなる。病院も不足し、入ってくる物資も足りていない。ガザの復興への道のりは遠い。少なくともあと20年は不可能だと考えた方がいい。そして、これからも悲劇は続くのである。
だから唯一の解決策がパレスチナ国家樹立なのである。パレスチナが国家独立宣言をしたのは1988年の11月15日の事だ。しかし世界はその独立を認めなかった。欧米が断固、拒否したからである。しかし2012年にオブザーバー国家となり、私は東京にてピースマーチを指揮した(写真右)。
私の作ったパレスチナ国家承認署名運動のサイトを見ていただくと分かるが、パレスチナ国家を認めている国はヨーロッパ諸国を含めて徐々に増えてきた。しかしアメリカが拒否すればそれまで、なのである。13年経ってもオブザーバー国家のままだ。
話しをガザに戻すが、かつてはイスラエル入植者がガザにもいた。そのイスラエル人が一気に撤退したのが2005年。この年の8月15日を期限とし、8,500人いた入植者全員がガザから追い出され、9月12日にはその住居が全て破壊された。中にはガザに留まりたいイスラエル人もいたが、強制退去させた。そしてガザは封鎖され、人や物の出入りが大きく制限された。そこに台頭したのがハマスだ。戦闘員を増やし、勢力を拡大した。
ここでハマスとファタハの違いを復習しておく。
ハマス・・ガザを実効支配している政党。ガザの自治政府とも言えるが、世界からは認知されていない。イスラエルの存在を認めておらず、二国家解決を支持していない。つまりイスラエルを滅ぼして領土を取り戻すのを最終目標としている。
ファタハ・・1960年代からアラファトを議長としたPLOが基盤の政党。ヨルダン川西岸を支配。事実上のパレスチナ自治政府、PA(Palestinian Authority)である。1988年に独立宣言、1994年にオスロ合意を推し進め、イスラエルの存在を認める。二国家解決を支持。
よく知ったか振りというか、ちょっとした知識を持つ人がPAやアッバスを批判するのだが、世界で認められているのはPAであり、ハマスはテロリスト組織とされ、今まで欧米からは相手にされてなかった。トランプがハマスと交渉したのが、アメリカ政府とハマスの初の接点である。
PAは経済的にもイスラエルの支配下にあり、様々な税金もイスラエルに徴収される。本来なら徴収された税金の一部がパレスチナに戻ってくる仕組みだが時折、イスラエルは税金を返還しない事もある。
方やハマスはイスラエルを認めていないので、税金を払う事も拒否。そうした事もあり、兎に角、イスラエルはハマスを壊滅したいのだ。
イスラエルに収める税金の問題等で、PAは汚職が指摘され、2006年のパレスチナ評議会選挙ではハマスに敗れた。しかしPAはそのままパレスチナ代表として留まった。この点が、知ったか振りの人達が批判する点だが、これはアッバス云々の問題ではない。イスラエル、アメリカを始め、世界各国がハマスを認めていないので、選挙結果を無視したのである。
しかも選挙が実施されたのはちょうどガザから入植者が撤退した後。だからハマス戦闘員が増加したタイミングである。しかしながらWikipedia によると2005年から2006年に実施された調査ではファタハ支持がハマス支持者を常に上まっている。左のスクリーンショットがそれである。2005年12月、並びに2006年の1月、調査結果はいずれもファタハがハマスの人気を上回っている。調査結果全文。
知ったか振りの人達は、PAはパレスチナ国民の支持を得ていない、腐敗している、だからパレスチナ国家になっても機能しない、などと不条理な理由をつけて国家承認に難癖を付ける。
私は実際にパレスチナに何度も行き、パレスチナの人々と話しをしてきた。もちろんファタハを嫌う人もいるが、今ではパレスチナ人の殆どがハマスを敵視している。
土井敏邦氏。パレスチナ・イスラエルを取材し、数本のドキュメンタリー映画を制作してきた映画監督である。彼はYahooニュースに掲載している「新・ガザからの報告(84)」の中でハマスについてこうリポートしている。
>人びとがハマスに対してどれほど大きな憎悪を抱いているかがわかります。人びとのハマスへの憎しみは想像以上に大きいのです。しかし人びとは、公に怒りや批判を表明できません。ハマスは敵対者に対して血にまみれ、弾圧的だからです。
>ハマスは病院の正門前で3人の男性を処刑しました。「その男たちはイスラエル軍のスパイだ」だと宣言したのです。しかしソーシャル・メディア上では、「いや、3人はスパイではない。彼らはハマスに挑戦していたのだ」と多くの人が投稿しました。
・・ハマスがガザに入る支援物資を横取りしている。これも紛れもない事実。再び土井氏「新・ガザからの報告(71)」のリポートから。
>この事件はガザ地区の2つの現実を象徴しています。1つはハマスの弱体化です。住民をコントロールする力が非常に弱体化していることを象徴しています。2つ目は、ハマスが民衆の間でとても不人気だということです。ハマスは援助物資のパッケージを闇市場で売却し、現金を得ているのです。ハマスが現金を得る主な方法の1つは、援助物資の盗難です。
ハマスがそんな状態なのに、世界から相手にされる訳がない。今、議論されているパレスチナ国家樹立も含めた今後。それはアッバスを議長とするPAと世界(国連)の話し合いである。ハマスは武装解除させられるか、再び攻撃されるか、その二択である。
ガザの今後をまとめる。
・今後もイスラエルのガザ征服作戦は続く。大規模な爆撃でなくても、あの手この手でガザ市民を苦しめる。
・アメリカが周辺アラブ諸国も巻き込み、ガザの統治に絡んでくる。しかしこれには時間かかる。
・ガザ市民は完全に追放されるのではなく、イスラエルに反抗しなければガザに留まる事ができる。
・ハマスはパレスチナ人の信頼を完全に失っている。いずれ解体、または完全なる非武装組織となる。
結論としては、いずれイスラエルがガザを完全に占領する可能性は高い。だからパレスチナ国家の樹立が必須なのである。ガザが完全占領される前にパレスチナが独立出来れば越したことは無い。しかし現実的に考えると、独立のタイミングが遅れても、ガザ市民はヨルダン川西岸に樹立するパレスチナ国に住めば良いのだ。それで80年近くに及ぶ殺し合いが無くなる。イスラエル人とパレスチナ人が隣国として共存できる様になる。それには世界からの支援が必要である。
だからパレスチナ国家承認の署名が意味を持つのである。
何度も言うが、私は平和活動家である。お金を取って講演をしたり、出版したり、サイン会を開いたりはしない。中東にも自費で行っている。ただただ、平和の実現に向けて活動しているだけだ。だからパレスチナを飯の種にしている人達、出版して講演を行っている人達とは考えが違う。彼らは平和を求めているわけではないのが、話しを聞くと分かる。私は、これ以上の人が殺されるのを食い止める為、ただそのために行動している。
最後に私の書いた曲、In The Land Of Palestine のミュージック・ビデオを紹介する。映像内で繰り返し出てくるパレスチナ人と日本人が一緒に踊っているシーンは2013年にベドウィンのお祭りに招待された時に撮った映像である。
![]() 2013年、ラマラのカルチュラルセンターにて演奏(中央は高谷秀司氏) |
2014年、東京で行われたピース集会。 この時にネタニヤフ戦争犯罪人のプラカードを作った |
![]() 2015年、ベツレヘムの野外コンサートにて |
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| ニッキー・マツモト 略歴 | |
| 1963年 | 千葉県にて産まれる。 |
| 1981年 | 単身渡米。9月30日にLAに着き、翌週からCSULAに通う。その最初の週、10月6日にエジプト・サダト大統領暗殺。 |
| 1996年 | 15年に渡るアメリカ生活、音楽活動を終え、帰国。 |
| 2003年 | 家族と離縁、ホームレスとなる。 |
| 2004年 | 誰の力も借りず、資金ゼロで立ち上げたビジネスで成功。音楽活動再開。都内の大使館に出入りするようになる。 |
| 2011年 | 自ら立ち上げたバンド、Rock Of Asiaのデビューアルバムを3月11日に発表、震災と重なる。3月15日から海外のメディアを連れて東北を回る。それ以降、11度の東北訪問、支援活動。8月にはトルコの災害救助隊を被災地に案内する。 |
| 2012年 | Rock Of Asia 中東ツアー。エジプトのカイロ・オペラハウス等で演奏。ラマラ、ベドウィン村、ジェリコ等、訪問。 |
| 2013年 | 高谷秀司らと共にパレスチナ訪問。ラマラ最大の会場で演奏、C地区の子どもセンターなどを訪問。またパレスチナ国営テレビ難組にも出演。 |
| 2014年 | ガザに送る支援物資を大量に持ち込んだことでイスラエルの空港で抑留。8時間後に釈放。ナブルス、C地区の村、ジェリコ等、訪問。 |
| 2015年 | アースキャラバンの一員としてイスラエルとパレスチナを訪問、ベツレヘムの野外コンサートに出演。ネゲブ砂漠、ビリン村、ヘブロン等訪問。 |
| 2016年 | 再度、アースキャラバンと協力、ベツレヘムの野外コンサートに出演。キブツやドゥルーズ地方、難民キャンプ等、訪問。 |
| 2017年 | 増山麗奈とパレスチナ入り。この年は2度、パレスチナを訪問。ヘブロン、ラマラ、エルサレム等、訪問。 |
| 2019年 | トーマス・サワダとパレスチナ入り。ラマラの公園で野外コンサート。ベツレヘムにて演奏等。 |
| 2022年 | コロナのおありを受け、中東での活動は出来ず。子ども食堂とホームレス支援という地域支援に移行。 |