呪われたレッドソックス


1975年のシーズンが始まる前、アメリカン・リーグの東地区を制するのはヤンキースだろうという予想が大方だった。なにせ前年最多勝のキャットフィッシュ・ハンターをアスレティックスから、そしてジャイアンツからボビー・ボンズ(バリー・ボンズの父)をも獲得していたのだ。しかしこの年ボストン・レッドソックスには強力なルーキー外野手が二人も現われる。そしてヤンキースを見事突き放し、ワールドシリーズへと勝ち進んだのだ。

その一人の名はフレッド・リン。彼は大学野球界でもスターで日米大学選手権でも大活躍していたので、その名は日本でも知られていた。成績は打率.331、21ホーマー、105打点。MLB史上初の新人王とMVPのダブル受賞を達成した。さらに一つ年下のジム・ライスも打率.309、22ホーマー、102打点とリンと比較しても決してひけを取らない立派な成績を挙げたのだった。いや、9月に手首を骨折するというアクシデントがなければライスとリンの立場は逆転していたかもしれない。さらに1967年に三冠王を獲得したカール・ヤストレムスキー(彼以降三冠王は出ていない)やジョニー・ベンチと並んで名捕手と称えられたカールトン・フィスクなどのメンバーが揃っていた。

最後の三冠王ヤストレムスキー


東地区を制したレッドソックスは、前年までワールド シリーズ3連覇していたオークランド・アスレティックスとプレーオフを戦う。その第1戦、エース、ルイ・ティアン(この年18勝)がアスレティックスを3安打に抑えて勝利。 試合後のロッカールームではいつものように馬鹿でかいキューバ産葉巻を吸うルイの姿が見られた。そしてヴェテラン、ヤストレムスキーがシリーズを通して.455を打つという 活躍ですんなりと3連勝。あっさりとリーグ優勝を果たした。

75年のワールドシリーズ。セカンドを周るリン
     左はレッズのジョー・モーガン 




カールトン・フィスク
 12回裏 ポール際へ
  大飛球を放った瞬間・・

そしてビッグレッドマシーンと言われたレッズとのワールドシリーズ。レッズは1940年以来のワールドシリーズ優勝がかかっていたのだが、なにせレッドソックスはそれを上回る1918年以来、57年振りのワールドシリーズ制覇がかかっていたのだった。3勝2敗、レッズが王手をかけて行なわれた第6戦。延長12回裏、カールトン・フィスクがレフトに大飛球を打ち上げる。ファールか、ゲームエンディング・ホームランか・・・。

フィスクは飛び跳ねながら両手で「入れ!」とジェスチャー、そして誰もがかたずを飲んで見守る中、ボールがポールに当たる。劇的なサヨナラ勝ちでシリーズは最終戦へと突入する。その勢いでレッドソックスは5回を終わって3−0でリード。しかしビッグレッドマシーンのエンジンがかかった7回に追いつかれ、9回ジョー・モーガンの勝ち越しタイムリーが決勝点となり、レッドソックスのワールドシリーズ制覇はまたもおあずけとなってしまった。

そして1986年、メッツとのワールドシリーズ。またも歴史は繰り返された。23歳のロジャー・クレメンスが24勝を挙げ、最多勝、防御率1位、サイヤング賞、そしてMVPを獲得した年だ。1戦、2戦とハースト、クレメンスが好投、敵地で連勝してフェンウェイに戻ってきたソックスに期待は強まった。3戦オイルカン・ボイド、4戦アル・ニッパーで落とし、シリーズはタイに。第5戦にシリーズ再びメッツのエース、グッデン攻略。3勝2敗と勝ち越し、あと1勝というところまで迫る。

第6戦、マウンドに上がったのはクレメンス。ソックスは初回、ウェイド・ボッグスのタイムリーで先取点を挙げ、2回にも追加点、2−0でリードする。クレメンスは4回をパーフェクトに抑えていた。5回の裏、メッツはダリル・ストロベリーがファアボールで出塁するとすかさず二盗。レイ・ナイトがタイムリーを放ち、ヒープのダブルプレーの間にホームイン、メッツが同点に追いつく。7回レッドソックスはエヴァンスの犠牲フライで再び3−2でリード。ここで指にタコができたクレメンスが降板。

さらにソックスは8回表、満塁のチャンスを迎える。メッツのピッチャーは左腕、ジェシー・オロスコ。ここで左打ちのビル・バックナーに代打の切り札ドン・ベイラーが起用されるとファンは思った。しかしバックナーがそのまま打ち凡退、ソックスはメッツを突き放せなかった。そしてその裏、ゲーリー・カーターの犠牲フライで再びメッツが追いつきゲームは延長へ。10回表、ソックスがデイヴ・ヘンダーソンのホームランなどで2点を挙げ5−3。そしてワールドチャンピオンの夢を乗せ、いよいよ10回裏、メッツ最後の攻撃。そして簡単に2アウト。この時、シェイ・スタジアムの電光掲示板にレッドソックス優勝という文字が点灯し、MVPにハーストが選ばれたという情報が流れた。しかし・・・・。

カーター、ケヴィン・ミッチェルの連打で2アウト1、2塁。ナイトが打席に入った。カウント2−0と追い込む。あと1球でボストンが歓喜に包まれるはずだった。しかしナイトがしぶとく当たり損ねのヒットで一人返り、5−4。バッター、ムーキー・ウィルソンの時にピッチャー、スタンリーが痛恨の暴投で同点。そしてウィルソンの打った打球は1塁を守っていたバックナーの股間を抜け、ナイトがサヨナラのホームを駆け抜けた。普段なら守備固めで交替していただろうバックナー。またもやマクナマラ監督の采配に狂いが生じた。そして第7戦、前半3点をリードしながら6回に追いつかれたソックスにもう勢いはなかった。メッツが8−5で振り切り、レッドソックスはまたもやあと1歩でチャンピオンの座に手が届かなかった。

1918年以来ワールドシリーズ優勝を果たしていないボストン・レッドソックス。シリーズ優勝を果たした後の1920年、あのベーブ・ルース(当時は投手としても活躍していた)を宿敵ヤンキースにトレードしてしまう。その後、世紀のホームラン王として名を馳せたベーブ・ルース、そして王道を突き進んだニューヨーク・ヤンキース(1921年から8年間に6度のリーグ優勝)。かたやワールドシリーズ制覇から毎年遠ざかるボーソックス。

人はそれをバンビーノの呪いと言う・・・・・・・・・・・・・



フレッド・リン

名門USC出身で大学時代からスターだった。1972年に第1回日米大学野球選手権が日本で開催され、来日した。余談だが、あのウォーレン・クロマティーもマイアミデード短大の1年生で一緒に来ている。対する日本には山口高志、山下大輔、長崎慶一、山本功児らがいた。この時、MVPには最終戦で完封勝利を挙げた山口高志、そしてリンが敢闘賞に選ばれている。
                              http://www.jubf.net/us/index01.html

レッドソックスに入団した1974年に15試合に出場、打率.419、2ホーマーをマーク。そして新人王の資格を残したまま1975年、いきなり新人王&MVP。そのセンターの守りにおいても華麗な守備と強肩でチームをワールドシリーズに導き、ボストンに救世主が現われように思えた。1979年には打率.333で首位打者、39ホーマー、122打点と3部門において自己最高の成績を残す。しかしその翌年から故障気味になり、1981年にカリフォルニア・エンジェルスへ移籍してからは3割を超える事はなかった。しかし本人は選手生活のハイライトとして1983年のオールスターゲーム、シカゴのリグリー・フィールドで放ったグランドスラムを挙げている。彼は実はシカゴ生まれのカリフォルニア育ちで幼少の頃、リグリーに行った事があるのでことさら嬉しかったようだ。1990年パドレスを最後に現役引退。通算打率.283、306本塁打。

                              http://www.fredlynn.net/

ジム・ライス

リンと同様1974年にレッドソックスに入団、この年は24試合に出場、ホームランを1本打っている。1975年にリンと並んで大活躍したが9月に骨折。ワールドシリーズの出場も逃した。派手なタイトルはリンに持って行かれたが、その後1977年に39ホーマーで初のホームラン王、さらに78年は46ホーマーで連続ホームラン王と打点王、MVPにも選ばれた。83年にも39ホーマー、126打点で2度目の二冠王に輝いている。リンとは良きライバルであったが、1981年にトレードに出されチームを転々としたリンとは対照的に、1989年引退まで生涯レッドソックスに在籍した。通算打率.298、ホームラン382本。

                           http://www.redsoxdiehard.com/players/rice.html

ベーブ・ルース

言わずと知れた球聖。本名はジョージ・ハーマン・ルース。188センチ、98キロという巨体だったが顔が幼く見えたためベーブというあだ名がつく。そしてバンビーノもイタリア語で赤ん坊という意味だ。1914年にボストン・レッドソックスでピッチャーとしてデビュー、4試合で2勝1敗だった。翌1915年には32試合に登板、18勝8敗という成績を残すとその後、二年連続で20勝達成している。そして1918年にはピッチャーとしても20試合に登板、13勝するが、さらにバッターとして成長し95試合に出場、打率.300、11ホーマーでボストンのワールドシリーズ制覇に貢献した。1919年には一気に長打力が増し、29ホーマーを放つがピッチャーとしては17試合で9勝にとどまる。そしてそのオフにヤンキースにトレードされてからはバッターに専念、なんといきなり54ホーマーを放つ。さらに翌1921年には59ホーマーという記録を打ち立て、それを1927年に60本で更新した。

ヤンキースに移ってからは大スターとして誰よりも有名になり、ヤンキースの黄金時代を築いた。引き換えにレッドソックスは1918年以来ワールドシリーズ優勝を果たしていない。そこからThe Curse of the Banbino(バンビーノの呪い)がかけられているという事になってしまったのだ。終身打率は.342、打ったホームランの数714本は1974年にアーロンが破るまで最高の数だった。またピッチャーとして94勝を挙げている。

                           http://www.baberuth.com/


ROCKIN' BASEBALL