ドミニカン・ブラザースの兄弟愛
Ramon Martinez ラモーン・マルティネス
  Pedro Martinez ペドロ・マルティネス


1984年、ロサンジェルス・オリンピックの時、ラモーン・マルティネスはドミニカ共和国の一員としてドジャース・スタディアムのマウンドを踏んでいる。そしてその年の9月、ロサンジェルス・ドジャースと契約を交わし、メジャーリーガーへの一歩を踏み出す事になる。それまで彼は二人の弟と共にドジャースのドミニカ・ベースボール・アカデミーで野球を学んだのだった。ドジャースと契約を交わした時、ラモーンは若干16歳。MLBの規約で決められている契約可能の最年少だった。この頃、彼は身長が190センチあったものの、メジャーのピッチャーとしてはあまりに痩せ過ぎで体重を増やす為に1日中アイスクリームを食べていたというエピソードもある。メジャーに昇格したのは1988年になってからだが、花が咲いたのは1990年のことだ。22歳という年でドジャースのエースにのし上がり20勝6敗、防御率2.92という成績を挙げた。6月4日には18奪三振という快挙でヴァレンズエラ以上のピッチャーになるのでは、と言われたのだった。

←レッドソックス時代のラモーン

1995年7月14日、マーリンズ相手にノーヒッターを記録したラモーンだったが、ドジャースのエースとして活躍したのは1997年までだった。1998年、ひじの手術をした後、弟の後を追うようにレッドソックスに移籍する。1999年は登板こそ少なかったが、大活躍した弟と並んでダグアウトにいるマルティネス兄の姿が見られた。2000年には故障から見事に復帰、10勝8敗という好成績を残した。そして2001年、ドジャースに復帰するもシーズン前に解雇。パイレーツに拾われたが4試合で0勝2敗、防御率8.62という成績。誰から奨められたわけではなく自ら引退を決意したと言う。まだ33歳だった。

ラモーン・マルティネス。通算成績は135勝88敗、防御率3.67。やんちゃ坊主の弟ペドロとは対照的に実に物静かな男だった。


そして3歳年下の弟ペドロがドジャースに昇格したのが1992年。この年は2試合のみの登板であったが、翌年ルーキーの資格を残したまま、リリーフ・ピッチャーとして 65試合に登板(ドジャースの新人記録)、10勝5敗2セーヴ、防御率2.61という数字を残し、兄ラモ−ンと仲良く10勝ずつを記録した。もちろん兄弟のリレーも何度もあった。だが・・・ その年1993年のオフ、2塁手が欲しかったドジャースはモントリオール・エクスポスからデライノ・デシールズを獲得、その見返りとしてペドロを放出してしまう。この頃、マルティネス3兄弟のもう一人、ヘススもドジャースのマイナーにいて、メジャーでの活躍を期待されていた。ペドロはリリーフとしては使えるが、先発としては使えない、むしろヘススの方が期待できると読んでいたドジャースのフロントだったが、このトレードは大失敗であった(結局ヘススも活躍できないまま1998年にレッズへトレード。その年のオフにユニフォームを脱いだ)。

ルーキーの年から毎年10勝以上は記録していたペドロだったが、頭角をあらわしたのは1996年。勝ち数こそ13だったが初めてオールスターに選ばれた。そして一気にリーグを代表するピッチャーとなったのが1997年だった。いきなり開幕8連勝を記録、17勝8敗、防御率1.90という成績でサイヤング勝を受賞したのである。もちろんこのエクスポス時代、今一つ勝ち星の数が伸びなかったのはエクスポスの貧打線のせいだった。そして大人しく長身の兄のラモーンとは対照的にペドロは背が低く、とんでもない暴れん坊だ。1994年にはなんと12回の退場を食らっている。その翌年にはシーズンを通して11個もの死球を与えているのだが、なにせ彼のスライダーは異常に曲がる。これもペドロの指が異常なほど逆に(外側に)そっているからだが、疲れてくるとコントロールが効かなくなり、つい当ててしまうそうだ。そして乱闘に巻き込まれるのもしょっちゅう。そんなペドロにはセニョール・プランクというニックネームがついた。

しかし周囲が驚くほどペドロは兄思いだ。エクスポスに移籍した後も、対ドジャース戦で兄ラモーンが登板するとダグアウトから姿を消し、ロッカールームでテレビを見ながらラモーンの応援にまわってしまう。これには周りもあきれてしまったが、彼は最後まで兄と同じ試合で投げ合うのを嫌がったのだった(ラモーンは気にしてはいなかったと言うが)。しかし1996年の8月29日、二人はとうとう対決する事になるのである。モントリオールで行なわれたエクスポス対ドジャース戦。3回の裏突如ラモーンが乱れる。1アウト後、ホワイトにシングルを許すと続く3人の打者にファアボールを与え、押し出しでエクスポスが先制点を挙げる。ところが4回の表、今度はペドロがピアザとキャロスに連続ホームランを献上、結局試合はそのまま2対1でラモーンが勝った。素晴らしい投げ合いだったというコメントを残したラモーンに比べ、ペドロはラモーンは僕のアイドルだと言っただけだった。

いいピッチングをしてもあまり勝てないエクスポスに不満があったペドロは1998年にボストン・レッドソックスに移籍する。前年サイヤング賞を受賞した才能はアメリカン・リーグでも花咲いた。今現在リーグ最高の右腕として君臨しているのは知っての通りだ。1999年に23勝4敗、防御率2.07という驚異的な成績を挙げたが、MVPの選出からもれた時に不満たらたらのコメントを残している。そんなペドロが2001年、イチローと初めて対決した時に「なんでイチローを意識しなきゃならないんだ?」というコメントを残したと言う。いかにもセニョール・プランクらしい。そしてそのイチローと初めて顔を合わせ、マリナーズを完封した5月2日、兄のラモ−ンが引退を発表したのである・・・・


ROCKIN' BASEBALL