王者ヤンキース

しかし78年以降、名門チームは鳴りをひそめる。ドン・マッティングリー(84年首位打者)ら優秀な選手はいたが優勝から遠ざかる事はおろか、95年までポストシーズンに進出する事さえなかったのだ。しかしポール・オニールが94年に首位打者を獲得、ボストンから首位打者5回のウェイド・ボッグスが移籍してきたあたりから強いヤンキースが復活。今や敵無しの状況であるのは誰もが知るところ。

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index.html(サーマン・マンソン公式サイト)

キャットフィッシュ・ハンター

レジー・ジャクソン

http://www.reggiejackson.com/(レジー・ジャクソン公式サイト)

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サーマン・マンソン

76年から78年まで3年連続でアメリカン・リーグ優勝(77,78年はワールドチャンピオン)を果たした時代にレジー・ジャクソンと並びヤンキースを引っ張った名捕手だ。1970年に新人王に輝いた後、順調にスターダムにのし上がり76年にはルー・ゲーリック以来というキャプテンに指名され、75年から77年までいずれも三割と100打点以上をマーク。特に77年はMVPに輝き、ナショナル・リーグを代表するキャッチャー、ジョニー・ベンチと並び、アメリカン・リーグの顔として君臨した。しかし・・・・

人気絶頂にありながら悲劇は1979年の8月2日に起こった。その日、オハイオ州キャントンの自宅近くで真新しいセスナ機に乗りこみ、離着陸の練習をしていた時だった。滑走路にアプローチしていた時に木に接触、セスナ機は炎上、マンソンは機内に閉じ込められたまま、帰らぬ人となったのだった。サーマン・マンソン32歳の夏だった。たった12年間の現役生活だったが彼の背番号15は永久欠番になっている。


本名はジム・ハンターだが、カンザスシティー・アスレティックスのオーナーだったチャーリー・フィンリーが彼の趣味を聞いた時、キャットフィッシュ(ナマズ)釣りと答えたためにそれ以来キャットフィッシュ・ハンターと呼ばれるようになったのだ。1964年入団時18才だった彼はサインする前年、右足の親指を失うという発砲アクシデントにあっている。アスレティックスがオークランドに移った68年、ツインズ相手に完全試合を達成。71年から5年連続20勝以上を挙げた(75年はヤンキースで23勝)。彼は被爆王でもあり、被本塁打374はAリーグ記録だ。最多勝2回、最優秀防御率1回、サイヤング賞1回。15年の現役通算224勝166敗、防御率3.26。
ミスター・オクトーバーとしてあまりにも有名。初めに73年アスレティックス時代にワールドシリーズMVPを獲得。そしてヤンキース移籍後の77年の大噴火が強烈な印象を残した。ドジャースとのシリーズ第4戦、ホームランとダブル(2塁打)でヤンキースの勝利を呼び、対戦成績を3勝1敗とする。第5戦はドジャースが勝ったが最終打席でシリーズ2本目のホームランを放ち、迎えた第6戦。初めの打席はバート・フートンにストレートのファアボール。第2打席では初球を2ランホームラン。第3打席でも初球を打ち2ラン。これでヤンキースは7−3でリードする。さらに駄目押しとなる3ランを8回に放ち、なんと四球を挟み、4打数連続ホームラン。

この時以来ついたニックネームがミスター・オクトーバーなのだ。87年に引退するまで通算ホームランの数は563本。本塁打王4回、MVP1回。

小学生の頃からMLBファンだった僕はこの試合をテレビで見た。当時はBSもケーブルTVもない。MLBの中継など滅多に見れなかったのだ。プロ野球ニュースでもワールドシリーズといえども、ただ白黒のAP通信かなんかの衛星写真が紹介されるだけ。だから映像を見るだけで夢中だった。レジーのホームランは確かに凄かった。しかしそれ以上に度肝を抜いたのが、ヤンキースの優勝決定の瞬間、どっとフィールドになだれ込むファン(現在は絶対見られない光景だ)の間をダグアウトに向かってひたすら走るレジーの迫力だった。なにせファンと激突しながら、弾き飛ばしながら駆け抜けるのだ。あれは何よりも凄く印象に残っている。
ヤンキースの歴史はあまりにも長い。21世紀に突入した今日もヤンキースの黄金時代と言えるが、ドラフト導入後は毎年のように優勝していたわけではない。戦後20年の間にリーグ優勝15回、そしてワールドシリーズを制する事10回と圧倒的な強さを誇ったヤンキースも65年からは11年間も優勝から遠のいた。しかし70年代に入ってから優秀な選手が集まり出す。1970年にキャッチャーのサーマン・マンソンが新人王を獲得したあたりから素晴らしい選手が集まってきた。ピッチャーではロン・ギドリー(78年、85年最多勝)、エド・フィゲロア(76年19勝、78年20勝)、ドック・エリス(76年17勝)、キャットフィッシュ・ハンター(75年23勝、76年17勝)、スパーキー・ライル(77年セーヴ王、サイヤング賞)・・・・
野手ではファースト=クリス・チャンブリス(76年.293、17ホームラン)、セカンド=ウィリー・ランドルフ(堅実な守備の名選手。現ヤンキース・コーチ)、サード=グレイグ・ネトルス(76年ホームラン王)、ショート=バッキー・デント(目立たないが守備は素晴らしかった)、外野はロイ・ホワイト(80年から来日、巨人でプレー)、ミッキー・リヴァース(76,77年三割をマーク)、ルー・ピネラ(三割を打つ事5回、現マリナース監督)、さらに77年に移籍してきたミスター・オクトーバー=レジー・ジャクソンなどそうそうたるメンバーがいた。
ベーブ・ルース

言わずと知れた球聖。本名はジョージ・ハーマン・ルース。188センチ、98キロという巨体だったが顔が幼く見えたためベーブというあだ名がつく。そしてバンビーノもイタリア語で赤ん坊という意味らしい。1914年にボストン・レッドソックスでピッチャーとしてデビュー、4試合で2勝1敗だった。翌1915年には32試合に登板、18勝8敗という成績を残すとその後、二年連続で20勝達成している。そして1918年にはピッチャーとしても20試合に登板、13勝するが、さらにバッターとして成長し95試合に出場、打率.300、11ホーマーでボストンのワールドシリーズ制覇に貢献した。1919年には一気に長打力が増し、29ホーマーを放つがピッチャーとしては17試合で9勝にとどまる。

そしてそのオフにヤンキースにトレードされてからはバッターに専念、なんといきなり54ホーマーを放つ。さらに翌1921年には59ホーマーという記録を打ち立て、それを1927年に60本で更新した。

ヤンキースに移ってからはMLBの大スターとして誰よりも有名になり、ヤンキースの黄金時代を築いた。引き換えにレッドソックスは1918年以来ワールドシリーズ優勝を果たしていない。そこからThe Curse of the Banbino(バンビーノの呪い)がかけられているという事になってしまったのだ。

終身打率は.342、打ったホームランの数714本は1974年にアーロンが破るまで最高の数だった。また主にレッドソックス時代にピッチャーとしても94勝を挙げている。


ベーブ・ルース   ルー・ゲーリック
http://www.baberuth.com/
(ベーブ・ルース公式サイト)